LIFEWORKPRODUCTSのウェブサイトのトップページでみなさまをお迎えする映像作品。ランダムに表示される映像たちは、映像作家である前田博雅(まえだ・ひろまさ)さんによるもの。ビルのガラスなどに反射した人々の営みがループする映像は、実像と虚像が調和する不思議な作品です。
前田さんが見ている世界や、それぞれの作品に込めた思いを、“モノローグ”として前編・後編にてお届けします。
(前編)
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前田博雅(まえだ・ひろまさ)さん
武蔵野美術大学 造形学部 映像学科 卒業。東京藝術大学 大学院 映像研究科 メディア映像専攻 修了。絵画、版画、写真、彫刻作品を販売する国内最大級の現代アートECサイト「TAGBOAT(タグボート)」の所属作家。
過ぎゆく瞬間への執着
どんなに瞬きを堪えても、どんなに目に焼き付けたとしても、あらゆる事柄はいずれはこぼれ落ちて消えていってしまう。ぼんやりと出来事を覚えていても、忘れたくない表情や感情のディテールほど静かに記憶の海の底に沈んでしまう。私がカメラを持つのは過ぎゆく瞬間への執着から来るものがほとんどかもしれない。
変化とその重なりと
都心で生まれ育った以上、ビル群の光景は当たり前の原風景であり、それが変化し続けることもまた当たり前であった。もちろんいま眼前に広がる大摩天楼が100年後も同じ姿をとどめているはずはない。
それはすなわち、ある光景が変わることはもちろん、その光景を成立させる場所=視点も変化していくことである。視点の変化によっては、見える現象の様相も変わってくる。言うまでもなく、いまこの瞬間に起こったことは、この瞬間以外にあり得ないのである。
堅牢に感じられる動かない建物と、何かと忙しなく動き続ける人や車。建物の静けさが日々を繰り返す日常を支え、ずっと同じ繰り返しのように思える日常も、本当は一生に一度の偶然を人々が積み上げたものであり、その重なり合い(もしかすると所謂”社会”)が都市の光景のなかにひっそりと映り込んでいる。社会の構造というとヒエラルキーをはじめとした概念ばかりについ目が行ってしまうが、1つ1つの生活やその本質を忘れてしまっては、それは実感から乖離した張りぼてに過ぎないだろう。
瞬間を追い求める
そんなひっそりとした光景を捉えるためにカメラを持っているが、カメラ(ここでは映像)も決して全てを映す万能アイテムではない。映像という視覚表現をする上での定石は、1つの伝えたいことに焦点を当てそれ以外を背景化する、というものだろう。しかし今回の作品で追おうとしているものは、これだけではおそらく抜け落ちてしまう。
様々な人生=時間軸がそれぞれに流れているという様相そのものに、上下や優劣、主役も背景もないのである。だからこそ、(魅力的な画面構成を行うことは排除できないが)陰影を含め画面全体をフラットに捉え、可能な限り画面から中心性という権力を除くことで視線を自由にし、画面に持ち込まれる二項対立や否定を少なくしたいと考えた。
愛おしさと憂いのはざまで
あらゆる物事は常に移り変わりゆく。
すべてを捉えることは無論不可能だ。
それでも失われゆく一瞬一秒への愛おしさと、捉えきれずにこぼれてゆく憂いとのはざまで、ただ淡々とカメラという暗箱に光景を収め続けていく。